@極寒・停電の都@
1990年末〜1991年

従兄弟が遊びに来たのがベーカリーに勤めだした年の秋で1990年。
ベーカリーに勤めてからの冬だから1990年から1991年にかけてということになる。
12月に入った頃から急に冷え込みが厳しくなりクリスマスも終わった年末頃に
なんと零下を大幅に割る低気温を記録したのである。関西に育った私にとっては
零下10℃以下なんてのは想像を絶するものであった。
 
こちらの気温の基準は華氏でファーレンハイトの頭文字の『F』を取ってF°という風
に表示するが,32F°で摂氏0℃である。それが4F°なんかになられた日には
窓ガラスに氷の分厚いシートがビッシリとモザイク模様も鮮やかに貼り付いて,ドア
も氷で開かない始末。ここまで寒いと快晴が多く雪も降らない。まず寝床から意を
決して飛び起き,前の夜から用意してあったまさに冬武装に体が冷え切ってしまわな
いうちにとりかかる。肌着にTシャツにポロシャツに大振りのポロシャツに小振りの
ジャケットにセーターに大振りのセーターに・・・・・・・股引に夏のサブリナに小振りの
ジーンズにだぶだぶのジーンズに・・・・・・・・。腕が上がらないなんてしばしば。
そんなのお構いなしに薪ストーブに直行し『薪拾い』に疲れきった後に敷地の裏手
に見付けたもみの倒れ木の解体した薪をガンガン用意する。
 
薪ストーブって点火が難しい。薪を更に細く割ったもの(キンドリンと呼んでいる)を
やぐらのように組んで,その下から新聞紙などをドンドン燃やしてやっと火が点く。
そのキンドリンに付いた火が強まるのを待って薪をくべていくのである。
ま,個人によっていろいろやり方があるとは思うけど。
そしてストーブを完璧に閉めて空気の出入りがないようにして燃焼速度を遅らせる。
そうすると炭火のように燃焼温度を高温に保つことができるのだ。
冬に灯油のストーブでしのぎきれないような寒い日が続くと薪ストーブを使うことに
なり,そうなると点火用の新聞紙などが夏はゴミから一転して貴重品に早変わりする
のも事実である。
 
執拗に雨が降り,そのすぐ後にそういった氷点下代の気温が急激にやってきたのが
1990年の文頭にもあるとおり12月も末のことだった。
雨で濡れ,その追い討ちの様な氷点下気温に所々の電線がブッ千切れてしまった
のである。当然島も含めて本土も広域に渡って停電。奴と私のところも水道管も破裂
していた。だが,電気がとまってしまい,近所一帯電力を頼りにしたポンプで汲み上げ
る井戸なので水があふれ出ていることはなかった。断水なのである。
それまでに何度か停電に続く断水は経験していたし,その度の修理も数時間から
遅くても24時間以内でおわっていたので,まあ今度もそれまでの辛抱だとタカをくくっ
ていたのだが・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
 
なんと,4日間。4日間停電は続いたのである。
 
電力がなく,セントラルヒーティングを使えない家庭は暖炉でなんとか寒さをしのぐが
暖炉ってあまり暖房用には薪ストーブに比べて実用的ではないらしく目の前に寒そう
に家族で固まっていたのを後になってニュースで放送していたのを覚えている。
奴と私には薪ストーブがあったのでそういう問題はなかったものの,電力がなくて
おまけに断水ときているのだ・・・・。冬は夜が早い・・・。ろうそくも20本くらい置かない
となにも出来る状態じゃない。
 
断水というのは思っているよりも遥かに不便このうえない出来事である。
4日間も水が出なくて,トイレが思うがままにフラッシュできないのが最大の悩み。
車で10分程のタウンへいってガロン単位で給水してきてはそれに当てるのだが
『自然からのお告げ』があればなるべくベーカリーなどの他所で用足しするなど
家のトイレは使わないようにしていたのにだ,義兄の夫婦が遊びに来た時にその
次男(当時5歳くらい)がなんと普段は暴れまくってものを壊すのに夢中なだけな
はずが,その時に限ってなんと何も言わずにトイレに侵入し,どデカイとぐろをホカ
ホカと巻いてくれたのである。あ・あ・あ・あ〜・・・・断水以来トグロ知らずだった
おトイレが。。。。。。給水の水でも流れないじゃないのさ,そんな大蛇(涙)。
きちゃない話である・・・・・。かたじけない・・・・。
 
そんなときのベーカリーの早朝勤務は結構おもしろかった。路面が凍って車が
使えず徒歩で20分先のベーカリーへと朝の4時に冬武装で向かったことが
あったのも覚えている。ハイウェイ沿いに歩いているとオレンジ色のハイウェイ
ライトに寒くて路面に付かない粉雪がヒューと舞っていたのまで思い出せる。
ま,北国雪国の人達から比べればこんな冬屁みたいなものなんだけれど・・・^^。


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